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夢の中でもいい。「あなたがいてよかった」と母に言われたかった。

  • 執筆者の写真: mossco
    mossco
  • 9月26日
  • 読了時間: 8分

元管理職 / 50 才                                   

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50歳の節目に、新卒から勤めていた仕事を辞めた。

50歳になったら自分の好きなように生きようと決めていたし、

ブックカフェを始めることも具体的に考えて準備をしている。


仕事さえ辞めたら、時間にも気持ちにも余裕が出て前に進めると思ってたのに、思うように進めない。

ブックカフェのコンセプトを考えようと思っても、他のお店が良く見えてしまって、

あれもこれもいいかもって自分のオリジナルが出てこない。

自分から純粋に出てくるもの、自分の内面を曝け出すのが少し怖い。


50歳になったら好きに生きるって決めたのに、まだ誰かの「正解」を探している。

それはもしかしたら母の「正解」かもしれない。



-周りの大人の気持ちがよく見える長女。


母は主婦だったけどよく出かける人だった。

カルチャースクールや旅行によく出かけていた。私はそれがイヤだった。


母は同居していた姑と仲が悪く、祖母が台所に入るのを嫌がるので、

母がいないときは、長女の私がみんなのごはんを温めたりしなければいけなかった。


なんで私がやらなきゃいけないの?と不満を感じてはいたけど、

私がやらないと、祖母がやることになり、あとで母の機嫌が悪くなって父と喧嘩になる。

かと言って、祖母には「お母さんがイライラしちゃうから台所に入らないで」とは言えない。

「私がやるから大丈夫!」と進んで引き受けるほかなかった。


父はそんな母に寛容だったけど、そこには「自分の母と同居してもらってる」という

負い目があったように思う。



-母に褒められたい!


どこかで「母の役に立ってる」「褒めてほしい」という気持ちが強かった。


子どもの頃から「よくできる子」で、なんでも要領良くこなすことができたけど、

母が私を褒めてくれることはほとんどなかった。


ただ、代わりに周りの人から私のことをそれとなく自慢していたと聞くことはあった。

口に出さないだけで、こころよく思っていたんだろうけど、

それは目立ちたがり屋の母の承認欲求を満たすためのツールとして利用されてるように感じた。

私は目立つのがイヤだったから、何か賞をもらったりしても母には隠していたのに、

どこからか聞いて知っているのだった。


何より母は自身の母に認めてもらいたがった。

母の兄の子より出来のいい私を使って、母親にアピールしていたのだと思う。

その祖母からは「ちょっと出来がいいからって調子に乗るな」と言われた。


今思えば、祖母に認められるように育てなければと思い、

すなおに手放しで褒めることすらできなかったのかもしれない。

私はただ、母に直接褒めてほしかった。

「母に認められたい」その満たされなさは連鎖していく。



-自分の気持ちを抑えて「正解」を演じてしまう。


同性ということもあってか、母は私にだけ姑の愚痴を漏らした。

そのことだけがなぜかうれしくて、私だけは母に寄り添ってあげよう、

家族がうまくまわるようにと立ち回っていた。


一方、弟は自由奔放に育っていた。

両親含め周りは、出来のいい私より出来の悪い弟にかかりっきりでかわいがっていたように感じていた。


自分の気持ちを抑えて周りの求めるものを満たしてきた私は、

いざ好きなようにやろうと思っても、自分の気持ちがわからない。

つい求められる自分を、「正解」を探してしまうのだ。



-通じ合えない、母の心の病気。


私が子どもを産んだのと同じころ、母が躁鬱になった。

初めての子育てを手伝ってもらうどころか、同時に母の心のケアまでしなくてはならなかった。


こんなこと言っちゃいけないんだろうけど、鬱だけならまだよかった。

躁状態になるとストッパーが外れたように、子育てのことなどにすごく口出しをしてきた。


子どもができて自分が母親になってから、母に対して子どもの頃の想いを伝えてみようと何度も試みた。

ここまで私を育ててくれたってことは愛されてなかったとは思っていない。

母に頼りにされてたことも知ってる。

ただ、言葉にして伝えてもらったことがないから、一度だけでも「娘が、あなたがいてよかった」と言われたかった。

そうしたらいくらか報われるような気がした。

でももうその時にはどの人格が本当の母かわからない状態だった。

躁の時に伝えたらすごく怒られたし、かと思えば次の鬱状態の時に覚えていて、

「私なんて子育てもまともにできずに死ねばいい」などと言い出す。

そう言われたら「そんなことないよ」と言うしかなかった。



-夢の中でもいい。愛を伝えてほしかった。


結局母との関係は解決しないまま母は突然、亡くなってしまった。

母が亡くなったとき、手続きやらなにやらをしたのも私だった。

お葬式で泣く余裕もなかった。最後まで気を回して世話を焼いたのはやっぱり私だった。

せめて、遺言でもいいから私だけへの言葉を残して欲しかった、と思う。

それが叶わないなら、夢の中でも。



-母が死んでよかった、と思う罪悪感。


悲しさややるせなさは癒えない。でも、母が亡くなってよかったと思ってる。解放されたと。

そう思うことに罪悪感もある。

でも母より年上の父が先に亡くなったら、私が一人で母の面倒を見なければならなかった。


ブックカフェを始めるのも、仕事を辞めるのも、母がいなくなったから踏み出せた気がする。

もし母がいたら、きっとだれにも知られないようにお店もこじんまりやろうとしてた。

子どもの頃、賞を取ったのを母に隠してたみたいに。

夢をかなえようとしても、ちゃんと自分の人生を生きられなかったと思う。



-母の闇に寄り添ってあげたかった娘。


母は心を病んでしまったけど、ある意味母はそれで幸せだったのかな。

もしかして病気になって初めて本当の自分になれたのかもしれない。


母は戦時中の田舎の大きな家で5人兄弟の中で生まれ育った。

男尊女卑が当たり前だったし、兄弟間でも扱いに格差があったのだそう。


「女が料理をして当たり前」、「女が旅行なんて行くな」、「女が本なんか読むな」、

「女は嫁いだら実家に帰ってはいけない」、

そんな家で育った母が嫁いだ先の姑は、反対に東京から来た自由奔放な女性だった。

父方の祖母はあまり料理もしないし、思い立ったら美術館やお芝居を見に出かけたりしていた。

母は子どもを産んだときも一切実家には頼れなかったけど、

姑と娘は現代のような仲良し親子で、里帰り出産して産後はゆっくり休んでいた、という話をよくきいた。

母がよく出かけていたのは、そんな姑に対する対抗心と、どこか憧れもあったのかも。


母は私に姑の愚痴を漏らしたし、同時に私に「あんたはおばあちゃんに似てる」と言った。

実際、私と祖母は、自分の本当の気持ちをあまり言わないところや、考えることが似ていたかもしれない。


「かもしれない」のは、私は母がいる前では絶対祖母とは話さないようにしていたから。

私と祖母が仲良くしたら、母が家の中で孤立してしまう。私だけは母に寄り添ってあげたいと思っていた。

でも母が求めた娘との関係は違ったのかな。

どうすればよかったのか、いまだにわからない。


一言で言うと母は甘えたかったんだろうな。本当は母も母に甘えたかった。

でもそれが叶わず、甘えられる存在が私しかいなかったのかもしない。



-母が断ち切ってくれた母娘の鎖。


母がどんな気持ちでいたのかわからないけど、私は自分の娘に同じことはしないし、

ここで断ち切れたと思う。

これが母ができる精一杯だったのかな。

この連鎖を終わらせてくれたこと、それが私にしてくれたことなのかもしれない。


私が地元で就職すると決めたとき、母に「少し離れた街で働いた方がいい」と言われた。

母なりに私がしがらみに巻き込まれないようにとアドバイスをくれたのだ。


母のことでたくさん泣いたけど、もう捉われすぎないようにしようと思う。

今の私には私の家族があるし、支えてくれる人たちもいる。


母が亡くなってから、闇雲に自分を取り戻そうとしてきた。

この荷物を捨てたら、これを始めたら、もっと自分らしくなれるかなと試行錯誤してきた。

仕事も50歳で辞められてよかった。どんどん軽くなっていると思う。


これからは好きに生きる。

いろんなことやろうとする自分にストップかけてたのは過去の私だった。

今はどんな自分も好きだし、応援する、私が私のお母さんになる。


自分の娘たちにもそんな背中を見せていきたい。



-後日談


あのあと、コロナ以後ずっとはいれなくなっていた地元の温泉が開放され

母が亡くなってからはじめていきました。


10歳頃から車にのり父と母と3人でよくかよった温泉です。


はじめてひとりでつかりました。


そのとき

涙が溢れてきてわたしは充分に愛されていたんだとわかりました。

兄弟との格差、期待、病気など、実際しんどかったのは事実ですが

母は見返りなくわたしを愛してたんだと。


弟、夫(父)、父母(祖父母)には愛されたい、必要と思ってほしいと、

見返りを求め願いながら愛を注いでいたんだな、と。

わたしが母へそう感じてたように。


わたしには、ただ自分が満足いく愛を注ぐだけで充分だったのかも。

同性のわかりあえる娘がいる、ただそれだけで満足だったのかも。


気分や体調がすぐれないとき、温泉につれていくこと、それが母の愛だったんだと。

その温泉が大好きだったのは、母と唯一ふたりだけになれる時間だったからかも。


お互い、愛情というみえないものをかたちにしたときに

与えたいものと受け取りたいものがあわなかった。

ただそれだけだと。








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インタビュー・ライティング/mossco

 
 
 

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